やまんばと

2018年6月からスイス・ジュネーブ在住。ヨーロッパの田舎、日本の地方をキーワードに発信。

ヨーロッパ的生き方と日本的生き方の狭間で

まだ日本で働いていた頃の激務っぷりを話した私に、イタリア人の友人は仕事が全てではない、人生は楽しむものだと真顔で言った。私の頭の中にはとっさに、これだからイタリア経済は停滞しているんではないかという意地悪な声がよぎったが、南部イタリア出身の彼が、アメリカのソースの味しかほとんどしないジャンキーなピザを馬鹿にしつつ、チーズやオリーブオイルへのこだわりを話し始めると、その声は自然と消えた。大事にしているモノの違いが分かったからだ。

 

ヨーロッパで働き始めて1年を経て、ヨーロッパでの生活は楽しいと心底思う。

美術、自然、食、伝統…美しいものに触れ、自分の生活の一部にする機会が転がっている。仕事も日本のような激務ではなく、定時+1時間で帰宅できる。また、夏には2週間ほどのバカンスもとれる。フランスでは有給消化は義務らしい。だからこそ、こうした機会を存分に楽しめるし、大切な人との時間も大事にできる。

ヨーロッパに来てからワインの産地やチーズの種類も気にするようになったし、マルシェに足を運んで手に取って良い食材を求めるようになった。美術館にも足を運ぶようになった。人生の豊かさとはこういうことをいうのかと、身に染みて思う。

しかし、同時にふと不安になることもある。ハングリー精神が失われていることに、これで良いのかと自問してしまう。ヨーロッパ的生き方に正直戸惑っているのだ。

 

日本もアメリカも、競争を通じて上を目指すと自分にとって良い結果が得られると思える社会だったから日々必死だった。日本であれば、中高生の頃から受験競争にさらされ、また、私が就活していた時代は就活も競争であった。アメリカは、日本以上に格差が激しいからこそ、トップ1%を目指した競争は一層熾烈になる。常に上を目指して、挑戦しようというハングリー精神は、自分のアイデンティティの一部として持ち続けてきた。

しかし、ヨーロッパは、このハングリー精神を日本やアメリカほど必要としない社会なのではないかと思う。

ヨーロッパには、お金で買えない豊かさがたくさんあり、それを重視する人達が集まる、格差が必ずしも人生の豊かさを決めない社会だ。海や自然、旧市街を楽しむだけならタダだし、車での移動であれば旅費もそこまでかからない。美術館は観光客が多いところ以外は無料開放の場所も多いし、食も、外食は日々の生活の当たり前ではなく、家庭菜園の野菜も使いつつ、自分でこだわりを持って料理する。

彼らが大事にするモノが、そもそも市場経済になじまないか、その中で高い価格がつけられていないのだ。もちろん経済格差はあるし、高級リゾートでのバカンスやミシュラン3つ星のレストラン等お金がないと得られないモノもあるが、それが全てではないと思える社会なのである。

必死に頑張って、自分の時間を犠牲にしてまで働いて得られる収入や地位で得られるモノの効用がそれほど高くない。そんなに頑張らなくても満足できるモノに溢れるヨーロッパ。だから、ハングリー精神を持たない人が多く、皆定時で帰り、バカンスを存分に取って、人生を謳歌する。

 

私には、本当の意味で、迷いなく、ヨーロッパ人的な生き方をすることはできるかは分からない。新鮮さを持って楽しむ一方で、やっぱりイタリア人の友人に対して思ったように、大げさに言えばハングリー精神こそが人類の進歩に果たした役割もあると思うからだ。アメリカでたくさん出会ったような、自分で社会、世界を大きく変えることを真剣に目指しているわくわくする人たちには、ここではまだ出会えていない。

私にとって、アメリカが、イノベーションを生み常に変革し続ける「動」を体現する国だとすれば、ヨーロッパは「静」である。クラシックを聴きながら、湖のほとりにある木陰で好きな本を好きな人と読みながら過ごすイメージだ。

これまでどちらかと言うと「動」で来た人生の中に、この「静」の要素をどうブレンドしていけるか、自分でも不安でありつつ、楽しみだ。

最後は、よく言われるが、何のために人生を生きたいかー

この答え次第なのだろうと思う。