やまんばと

2018年6月からスイス・ジュネーブ在住。ヨーロッパの田舎、日本の地方をキーワードに発信。

テント泊登山と適切なレベル感のすすめ~三大急登の黒戸尾根から~

三密回避ということもあり、今回初めてテントを担いでの登山を決行した。行先は甲斐駒ヶ岳。宿泊は標高2400メートル地点にある甲斐駒ヶ岳の七丈小屋である。

これまで登山をするたびに、二回り大きなサックを背負って登る人たちを憧れと半ば自分には無理だという諦めの眼差しで見ていた。テント泊が意味するものは、シンプルに重い荷物を背負うことだからである。

まず、単純にテント分の重さ。これには、テントだけでなく、シュラフマットレスなどのテントで寝ることでの付属品も含まれる。

それから、食事。これが意外と効いてくる。テント泊だと山小屋の食事をつけることはできないので、朝夕二食分の食材の重さが加わる。

防寒着も少し余分に持っていくと、通常の荷物にプラス2キロくらいになってしまうのである。

そんな重い荷物をものともせず登っていく人たちは純粋にかっこよかった。

 最高のご褒美

サックの重さを上回るご褒美がテント泊にはあった。

何よりも自然との一体感。山と自分の空間を隔てるのは、テントの薄い布で、自然の音、山の空気感がテントの中にいてもそのまま感じられる。これは、山小屋では得られない感覚だ。

そんな中で、遠くに見える山々と夕日を見ながら作り食べるご飯は格別でビールのおいしさもひとしお。七丈小屋のテント場からは鳳凰三山がきれいに見えた。また、満点の星空も美しい。朝は空が白んでくるころには目が覚め、登り始める朝日と共にご飯を食べる。

あとは、サバイバル感。なんでも便利な都会では実感できない、自分の力で生きているという感覚。多少の不便さが非日常となって新鮮に感じられる。

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テント場から見下ろす山の景色(左)と甲斐駒ヶ岳の絶景ポイント・剣と富士山(右)

苦い教訓

またテントを背負って登りたいな、と思う一方で、テント泊で登る山と、普通に登る山でのレベルの調整が必要、という当たり前のことも学んだ。

私が今回このレベルアップの場所に選んだのが、よりによって甲斐駒ヶ岳の黒戸尾根。

甲斐駒ヶ岳を登るルートはいろいろあるのだが、中でもこの「黒戸尾根」は、登山好きの方ならご存じかもしれないが、日本の三大急登(文字通り、登りが急峻)の一つに数えられる。高低差2200メートルを1泊2日で登る行程となった。

選んだ理由は半ば消去法で、①都内からの移動時間が比較的短いこと(2時間半ほどで登山口に到着)、②予約がとれたこと(難易度がもう少し低い山はコロナでそもそもテント受付を行っていなかったり、満室だったりした)、③まだ登っていない山で、夏に登るのに適当な高山であること(テント泊初心者におすすめの山は低山が多く夏場は暑い)、といった理由である。

登山記を読んでいる限りは技術的にも体力的にも大丈夫だろうと高を括っていたが、初めてのテント泊先としては難易度が高すぎた。重い荷物を背負うには総距離が長いうえに、標高差があまりにもきつかったのである。所々あるほぼ垂直な岩壁にある鎖場やはしごも、重い荷物を背負っての昇り降りは純粋に恐さもあった。

結果として、2日目の最後の2時間は足がほとんど動かなくなり、コースタイムも普段なら0.7倍くらいで行けるところ、通常かそれより遅いくらいに落ちてしまった。テントだと片づけにも純粋に時間もかかる。

更に、次の平日1週間は筋肉痛が全く治らず、怪我人さながら、階段の昇り降りを徹底的に避け、オフィスの椅子での立ち上がりには、手に力を入れて体を起こすありさまになってしまった。

おそらく、最もハードルの高いテント泊先の一つだったのではないかと思う。。

 

その他、備忘録的に、テント泊の際の必須の持ち物は、耳栓。テントは空間の仕切りにはなるものの、防音効果は皆無。私が宿泊したときは、夜はさながらいびきのコーラスで、入眠には少し苦労した。

また、女性一人で行く際は場所も選んだ方が良いように思う。七丈小屋のテント場はよく整備されていたが、テント場の規模は小さく(二つのサイト分かれていて、私の泊まった区画は全部で7はりくらい)で、小屋までは普通の登山ルートを5分ほど歩き、はしごも通る必要があるなど、距離もあった。私自身は連れと二人だったが、何もないことが9割9分だとは思いつつ、周囲が男性ばかりで防犯対策もあまりとれないテントに女性一人というのは、想像すると少し怖さも感じた。

スイスと山遊び

東京に戻ってきてから1年が過ぎた。

戻ってきてからはずっとコロナで、本来なら存分に楽しみたい友人との再会も実現できないままだ。それでも、この1年合間を縫って楽しんだことがあるー首都圏からそう遠くない日本の山々だ。

行く度に山の魅力に魅せられ、今年はテント泊での縦走を目指すべく、ついにテントや寝袋などの装備一式を買いそろえてしまった。 

日本でも、地方を切り口に細々と更新を続けたいと思いつつ、コロナがあるしばらくは山中心になりそうなので、山ど素人だった私が山に魅せられるようになったきっかけになったスイスでの生活について紹介したい。

山=最高の遊び場

スイスにいた2年間での大きな変化の一つが休日の過ごし方だった。スイスに行く前は、山といえば週末に日帰りで高尾山に行くか、父の実家の長野に行く程度だったが、スイス滞在中、夏にはハイキング、冬には末スキーと、気づけば月2回以上のペースで山に向かっていた。

夏のハイキングは、「ハイジ」さながらのきれいな草原と花々に彩られた山を歩く気持ちよさがたまらない。遠くで聞こえるカウベルを頼りに牛の姿を探したりしてみる。さらに、登った先で山小屋で食べるおいしいご飯は最高の贅沢だった。

スキー自体は10年以上のブランクがあり、最初はびくびくしながらだったが、3,000メートル級の山が連なるアルプスの山々に囲まれてのスキーと山の上でのビールと太陽が格別でブランクを忘れて楽しんだ。

かくして、山に目覚めたのだが、これは、スイスの山が特別だったから、というよりも、スイスでの生活が山が最高の遊び場だということを気づかせてくれたのだと私は思っている。 

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スイスの山々(夏、秋、冬)

 1.ワークライフバランスの良さ

まず何より、スイスでは、仕事以外に力を残せる環境を作りやすかった。

東京で働いていると、仕事の忙しさで平日に十分な休息をとることができず、休日は体の回復に使うか、平日の自由な時間のなさを埋めるように、生産的に過ごそうとついつい予定を入れて忙しくしてしまいがちだ。

しかし、ジュネーブでは、多くの場合19時過ぎ頃には仕事を終えることができていた。同僚に、”Work is not everything”が徹底しており、相手がある仕事で、遅くまで残っても仕事が進まなかったので、業務のペースが自然と周囲に合わされていった。

あとは生活面でのある意味での不便さ。軽食を買えるスーパーは19時にほとんどが閉まり、24時間営業のコンビニ的な存在としてキオスクはあるものの、おいしいご飯は皆無。レストランという案もあるが、一度入ると時間もお金もかかるので、毎日の選択肢にはならない。夜の残業を支える生活インフラがなかったことで、おなかを満たすために早く帰ろうという気持ちが強くなったのである。

平日に睡眠時間を取ることができ、かつ仕事以外に時間を使うことができたので、週末に体力も残り、週末に仕事以外の色々を全部詰め込む必要がなかった。

2.ジュネーブの娯楽施設のなさ

余力はあって週末に時間があっても、ジュネーブには、悲しいかな、週末を充実させる選択肢があまりない。

東京であれば、買い物や飲食のできる選択肢、娯楽施設はたくさんあり、また、めまぐるしく変化する。東京にいるだけで、飽きることなく、何となく楽しく週末を過ごすことができる。

ジュネーブではそんなことはない。そもそも人口20万人の都市を約1000万の東京と比較すること自体フェアではないかもしれないが、ジュネーブという町は毎週末過ごすには小さく、お店の選択肢も少ない。人工的な娯楽施設は映画館と湖沿いのスパ、小さな美術館くらい。更に、日曜はほとんどのお店が閉まっている。 

3.娯楽としての山の魅力

ここで、山に行こうという発想が自然と出てくるのである。そして、スイスでは、鶏が先か卵が先かだが、この山=娯楽を下支えするものが色々あると思う。思いつくのは以下の点。

  • アクセスの良さ
    車を1―3時間走らせれば、美しい山々に辿り着く。公共交通機関もよく発達しているので、電車で行くこともできる。
    フランスのシャモニー(Chamonix、標高4810メートルのモンブランで有名)、ムジェーブ(Megève)は、いずれもジュネーブから車で1時間足らず。
    スイスのユングフラウヨッホ、マッターホルンは、電車/車で2時間半程度。
  • 幅広いニーズに対応
    ロープウェーやトレイルの整備が進んでおり、子連れからお年寄りまで楽しめる環境になっていること。3,000メートル級の山も含めて高尾山並みに整備されているイメージで、初心者にも高山の美しさを見せてくれる。同時に、トレイルから外れてマウンテンバイクで降りていく強者もいたり、より険しい道をがっつり装備して登っていく人達もいて、上級者のニーズにもしっかり応えている。
  • 山小屋でのご飯が充実
    ロープウェーを登りきったところに、大体山小屋がある。山小屋と言っても小さな宿泊施設ではなく、多くの場合ホテル兼レストランとなっていて、スイスの典型的な料理がそこまで高すぎない値段で色々と楽しめる。太陽の近くで山々を眺めながら飲むビールは格別で、スキーの時も大体頂上付近のこうした山小屋で食事、一杯を終え、下っていく。

このように、最初はどちらかというと、体力は有り余っているのにジュネーブにいても週末やることがないというところから始まった山巡りだったが、山の魅力に魅せられて、山遊びのファンになった。

私は、日本の山の魅力自体はスイスに負けないと思っている。市場の大きさの違いか、全体の充実度はやはりスイスのほうが高いが、日本でも、場所を選べば、アクセスの良さや幅広いニーズへの対応などはあるし、山小屋はスイスの方がバリエーションは多かったように思うものの、個性豊かな山小屋もあり、楽しめる。私の周りで山好きは数えるほどしかいないが、日本でも、きっかけがあれば、山遊びがより多くの老若男女の選択肢になるのではないかと思う。

結局のところ、スイスに行く前に山の魅力に気づけなかったのは、東京での忙しい生活と刺激にあふれた生活が理由なのかもしれない。足元に転がる宝石に気づくことができなかっただけ。今は東京の忙しい生活に戻ったが、山には定期的に足を運んでいる。

山遊びは、単純に楽しいだけでなく、自然環境への理解の深まり、観光産業の発達、田舎へのポジティブなスポットライト等副次的なメリットもたくさんあるはずだ。

スイスの山に行くと驚くのは、小さな子を背負って上るお父さんにすれ違ったり、スキーの超難関コースを大人に遜色なく降りていく子供たちに出会ったりすること。子どもの頃から自然がとても身近であれば、私のように海外で暮らす経験を待つまでもなく、自然の魅力を発見していくことができるのかなとも思う。

ダークツーリズム

ダークツーリズムは最近出会った言葉だ。

人類の悲劇を巡る旅(井出明、2018『ダークツーリズム』)と定義されるという。具体的には、大量虐殺、戦争、人的・自然災害等が起こった場所を訪れることを含む。

友人と旅の話をしていて、何でわざわざそんなところに行ったの?という反応をされてきた場所がいわばこの『ダークツーリズム』の定義に当たる場所だった。観光業を考える切り口として面白いと思ったので、私が行ったチェルノブイリを一例として紹介したい。

ウクライナチェルノブイリ

チェルノブイリは、1986年、ソ連時代のウクライナで当時最大となった原発事故が起きた場所だ。チェルノブイリウクライナでは観光資源になっており、2016年のチェルノブイリへの観光客はなんと5万人を超えるという。私自身の訪問の理由は、福島原発を抱える日本人として、30年後の福島の姿を考えるヒントを得たかったからだ。

制限区域に入るには事前の許可が必要で、一人で行くのは難しいのでツアーに参加した。キエフを朝8時過ぎに出て夜7時に戻るという丸一日の行程で、事故から30年以上経ったチェルノブイリでの終わらぬ放射能との戦い、戻らない街の姿を見て、改めて原発の影響の大きさとその長さを痛感することができた旅となった。

首都キエフからマイクロバスに乗って向かうこと2時間。道中、地元の大学に通いながら働いているという若い女性のガイドの説明を一通り聞いた後、チェルノブイリ原発事故に関するドキュメンタリーを見た。そこで原発事故が冷戦下のソ連領であるチェルノブイリで起きたことで、ソ連原発の失敗を世界に知らしめたくない人々により事故の報告の不正確さ、遅滞が生まれたことや、初期対応で動員された消防士が放射線リスクを知らされず無防備な状態で対応にあたり被ばくをしたこと等を学ぶ。

放射能との終わりなき戦い

途中昼食を挟み、その消防士たちが出動したという消防署に短時間立ち寄った後、更に、10キロ圏内のチェックポイントを超えて、どんどん原発に近づいていく。

まず目に飛び込むのは巨大な金属製のドーム。この中に事故を起こした4号炉がすっぽり入っている。事故後、4号炉の放射能漏れを防いでいたコンクリートの建屋が老朽化したことを受けて作られたもので、ドーム近くでも線量計も安定していた。

このドームは、世界各地の専門家から成る国際チームが、放射線量が高くない離れた場所で組み立てを行ってから、スライドしてかぶせたというとても大がかりなもの。更にこの中には、解体作業を進めるための機械も取り付けてあり、高い放射線量にさらされることなく解体作業が進められるということになっているようだ。30年以上経った今も放射能との戦いは続いている。

原発の事故がもたらすもの

その後訪れたプリピャチ市もまた衝撃的だった。プリピャチは原発に従事する人達が住む町として作られた当時新しい街で、事故前には5万人弱が住んでいた。発生後2日と経たないうちに住民は一斉退去させられる。当初は一時的な退去と知らされて出た住民がその後戻れることはなかった。30年以上人が住めない場所になったプリピチャの荒廃した廃墟とそれを覆うようにして生い茂る生命力のコントラストは印象的だった。なお、ウクライナではこのような事故があった後も、15基の原発が稼働し、電力の原子力依存度は50%弱。原発依存は続いている。

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金属のドーム(左)とマンションの屋上から撮った町全体の写真(右)  
Netflixでのシリーズ”Dark Tourist”

このダークツーリズム、Netflixでもシリーズもののドキュメンタリーになっている。ニュージーランド出身のジャーナリストが死や災害で有名になっている世界中のダークツーリズムのホットスポットを訪れるという内容だ。エピソードは8つあり、そのうち2話目が日本を舞台にしたものである。

第二話では、まず日本人であればおなじみの地震の揺れを体験する起震車にジャーナリストが乗る場面から始まる。その後、40分の短いエピソードの間に、富士の樹海、福島原発後の被災地、ハウステンボスのへんなホテル、軍艦島とテンポよく場面が展開していく。

見ていて違和感を感じざるを得ない場面もあった。例えば、日本人にとっては記憶がまだ新しい福島の被災地で不在の家の前で写真を笑顔で写真を撮る外国人観光客の姿や自殺後の恐い物見たさで訪れる観光客等である。しかし、外から見た日本のダークツーリズムスポットというのは興味深かったので、関心があれば見てみてほしい。

観光資源への着眼点としての有効性

個人的に、ダークツーリズムという言葉は好きではない。『ダーク』という言葉が持つネガティブな意味合いが、必ずしも自分の旅行の目的と合致しないからだ。私は、チェルノブイリ以外にも、ダークツーリズムっぽいことをしている。ポーランドアウシュビッツ強制収容所イスラエルホロコースト記念館、ナイジェリア・ラゴス奴隷海岸等だ。

しかし、どれも別に人間の死や災害の現場を見たい恐い物見たさで訪れているわけではない。私にとっては、日本の小中学校で行う社会科見学の意味合いが強い。教科書で見聞きすることと自分で実際に足を運んでいわば疑似体験することは、理解度に決定的な差をもたらすと思う。どうしたら過去の出来事・経験を今・将来に生かせるのか考える重要なヒントになる。

したがって、ダークツーリズムという言葉と自分自身の経験の意味付けには乖離がある。だが同時に、観光資源を見つけるという視点に立った時、このダークツーリズムという考えは有効なこともあるだろう。

例えば、消滅自治体や過疎化で荒廃した農地―30年のうちに「日本の896の自治体が消滅する」という無機質な言葉をもっと自分事として考えられるかもしれない。福島は実際にNetflixのシリーズでも取り上げていたように、被災後の姿が観光スポットになり始めている。だが、負の記憶にまつわる場所だからこそ、その悲しみの記憶が新しいと難しい側面もあると思うし、訪れる人の良識を高められるような仕組み作りも重要だろう。

クリスマスマーケットの輸出戦略

12月のハイライトの一つは、ドイツのクリスマス・マーケット。日本で喧伝されている3大クリスマスマーケットの一つ、ニュルンベルクを訪れた。ニュルンベルクにはクリスマス期間だけで200万人の観光客が訪れるという。

わざわざ旅行しておきながら、しょせんクリスマスマーケットと高をくくっていた。三大と言っても、木の小さな小屋(ヒュッテ)が広場にずらっと並んで、クリスマスグッズやホットワイン、ソーセージ等の定番メニューを買える、クリスマスマーケット・パッケージがあるだけだろうと思っていたのだた。しかし、何というか、本場は違った。

英語に、“festive”という表現がある。

英日辞書を引くと、「①祝祭の、祭日の、②はなやいだ、陽気な、浮かれる」という意味だが、クリスマスっぽい雰囲気、気分を表す単語でもある。

その日は歩きながら、この“festive”という単語が頭の中に踊った。これまで日常生活で使ったことはなかったが、これがfestiveか、と妙に納得したのである。木の小屋が立ち並ぶ小道を歩いて回るだけで、ほっこりと幸せな気持ちで満ち足りてくるのだ。

冬の寒い研ぎ澄まされた空気の下、小屋から溢れる一つ一つの作る光とマーケットを見下ろす教会、売っているモノは違くても、各お店に一貫したクリスマスらしさ。その下でたくさんの人達が家族や友人と思い思いに過ごすゆっくりとした時間。子どもたちが教会前で歌うクリスマスの歌。

これら全てが一体となって、クリスマスらしい、素敵な時間が流れる。

クリスチャンでも何でもなく、一人で行った外国人の私に、ここまで幸せな気持ちにさせてくれる、本場クリスマスマーケットはすごい。

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①教会とその前に設けられたステージ、②伝統的なクリスマスグッズ、③マーケットの入口、④上から見たマーケットの様子
 伝統の力

1530年に始まったというニュルンベルクのクリスマスマーケット。人々の信仰、生活に根差し、長く続いてきたお祭りだからこそ、160を超えるお店がある大きなマーケットでも、地域がクリスマスらしさを支えることができるのではないだろうか。

Wikipedia英語版によれば、クリスマスマーケットの発祥は諸説あるが、ドイツのドレスデンが発祥の地とされており、遡ること、1434年。神聖ローマ帝国下にあった、現ドイツ、オーストリア、スイスの多くの都市で開催され、最近ではクリスマスマーケット・パッケージが国際的に輸出されている。私が住んでいるフランス語圏のスイス・ジュネーブのみならず、ドイツ以外の多くの国でクリスマスマーケットと名のつくものは見ることができる。日本でも六本木ヒルズや横浜の赤レンガ倉庫で開かれているらしい。

これまで行ったクリスマスマーケットの数は片手では足りないが、全てヨーロッパ版縁日のようなイメージだった。例えば、ジュネーブのクリスマスマーケットは、町の中の公園で開かれ、そこに30ほどヒュッテが立ち並ぶ。ぱっと見、クリスマスマーケットっぽい。ただ、教会がないということもそうだが、お店自体も縁日の雰囲気だ。飲食が7割で、国際都市ジュネーブらしく、内訳も日本のお好み焼きもあれば、メキシコ料理のブリトーもある。雑貨を売るお店も伝統的なクリスマスのオーナメントを売っている場所は1、2店舗で、普通の雑貨店が出前で出している形である。

露店が並ぶちょっとした非日常空間を作るシーズンもので、それはそれで楽しいのだが、どこか雑然としており、クリスマス感は残念ながらほとんどない。ただ、考えてみれば、伝統的にクリスマスを祝う人口も少なければ、お店もほとんどないので、本場ドイツのような空間は作り出せないのも当然だろう。

クリスマスマーケット・パッケージの輸出効果

同時に、ドイツの広報文化戦略の観点からは、本場とは違うクリスマスマーケットにも大きな意味はある。クリスマスマーケットが世界の色々な場所で楽しめ、親しみを持てるようになることは、本場ドイツのブランド力を高め、観光地としての魅力を高めることにつながるだけでなく、ドイツの生産者にとって新たな輸出市場を与えることになるからだ。ちょうど良い統計がなかなか見つからなかったが、2017年にはドイツのクリスマスマーケットに8500万人(含むドイツ人)もが訪れたという。この観光集客効果には目を見張るものがある。更に、2000年代にドイツのクリスマスマーケットを本格的に導入したイギリスでは、訪問者を引き付ける本物っぽさを出すために、ドイツのソーセージ、ドイツの生産者の出店を促しているとの報告があった。

ドイツは、クリスマスマーケットだけではない。ビールのお祭りオクトーバーフェストも同様にドイツ発で世界的に導入されているお祭りだ。その国らしさの輸出はインバウンドを促し、中小の生産者に機会を生むことになる。ドイツの国際的な取組はお祭りの多い日本の良いモデルになるかもしれない。そんなことを思ったドイツのクリスマスマーケット訪問だった。

ヨーロッパ的生き方と日本的生き方の狭間で

まだ日本で働いていた頃の激務っぷりを話した私に、イタリア人の友人は仕事が全てではない、人生は楽しむものだと真顔で言った。私の頭の中にはとっさに、これだからイタリア経済は停滞しているんではないかという意地悪な声がよぎったが、南部イタリア出身の彼が、アメリカのソースの味しかほとんどしないジャンキーなピザを馬鹿にしつつ、チーズやオリーブオイルへのこだわりを話し始めると、その声は自然と消えた。大事にしているモノの違いが分かったからだ。

 

ヨーロッパで働き始めて1年を経て、ヨーロッパでの生活は楽しいと心底思う。

美術、自然、食、伝統…美しいものに触れ、自分の生活の一部にする機会が転がっている。仕事も日本のような激務ではなく、定時+1時間で帰宅できる。また、夏には2週間ほどのバカンスもとれる。フランスでは有給消化は義務らしい。だからこそ、こうした機会を存分に楽しめるし、大切な人との時間も大事にできる。

ヨーロッパに来てからワインの産地やチーズの種類も気にするようになったし、マルシェに足を運んで手に取って良い食材を求めるようになった。美術館にも足を運ぶようになった。人生の豊かさとはこういうことをいうのかと、身に染みて思う。

しかし、同時にふと不安になることもある。ハングリー精神が失われていることに、これで良いのかと自問してしまう。ヨーロッパ的生き方に正直戸惑っているのだ。

 

日本もアメリカも、競争を通じて上を目指すと自分にとって良い結果が得られると思える社会だったから日々必死だった。日本であれば、中高生の頃から受験競争にさらされ、また、私が就活していた時代は就活も競争であった。アメリカは、日本以上に格差が激しいからこそ、トップ1%を目指した競争は一層熾烈になる。常に上を目指して、挑戦しようというハングリー精神は、自分のアイデンティティの一部として持ち続けてきた。

しかし、ヨーロッパは、このハングリー精神を日本やアメリカほど必要としない社会なのではないかと思う。

ヨーロッパには、お金で買えない豊かさがたくさんあり、それを重視する人達が集まる、格差が必ずしも人生の豊かさを決めない社会だ。海や自然、旧市街を楽しむだけならタダだし、車での移動であれば旅費もそこまでかからない。美術館は観光客が多いところ以外は無料開放の場所も多いし、食も、外食は日々の生活の当たり前ではなく、家庭菜園の野菜も使いつつ、自分でこだわりを持って料理する。

彼らが大事にするモノが、そもそも市場経済になじまないか、その中で高い価格がつけられていないのだ。もちろん経済格差はあるし、高級リゾートでのバカンスやミシュラン3つ星のレストラン等お金がないと得られないモノもあるが、それが全てではないと思える社会なのである。

必死に頑張って、自分の時間を犠牲にしてまで働いて得られる収入や地位で得られるモノの効用がそれほど高くない。そんなに頑張らなくても満足できるモノに溢れるヨーロッパ。だから、ハングリー精神を持たない人が多く、皆定時で帰り、バカンスを存分に取って、人生を謳歌する。

 

私には、本当の意味で、迷いなく、ヨーロッパ人的な生き方をすることはできるかは分からない。新鮮さを持って楽しむ一方で、やっぱりイタリア人の友人に対して思ったように、大げさに言えばハングリー精神こそが人類の進歩に果たした役割もあると思うからだ。アメリカでたくさん出会ったような、自分で社会、世界を大きく変えることを真剣に目指しているわくわくする人たちには、ここではまだ出会えていない。

私にとって、アメリカが、イノベーションを生み常に変革し続ける「動」を体現する国だとすれば、ヨーロッパは「静」である。クラシックを聴きながら、湖のほとりにある木陰で好きな本を好きな人と読みながら過ごすイメージだ。

これまでどちらかと言うと「動」で来た人生の中に、この「静」の要素をどうブレンドしていけるか、自分でも不安でありつつ、楽しみだ。

最後は、よく言われるが、何のために人生を生きたいかー

この答え次第なのだろうと思う。

スペイン・リオハのワイナリー 家族の一員になる1晩

フランスとスペインの間にまたがるピレネー山脈を越え、サン・セバスチャンからマドリードに車で向かう道中、ワインで有名なリオハ(La Rioja)に立ち寄った。

スペインの代表品種、テンプラニーリョが多く生産され、約90%が赤ワイン。リオハのワインは、19世紀、ボルドーがフィロキセラ(ぶどうをダメにしてしまうアブラムシ)で甚大な被害を受けた際に、ボルドーの生産者がリオハに移り、その醸造技術が伝わった結果、質が高くなったとされている。スペイン王室御用達のワインを製造するワイナリーがあるのもこの地である。

サンセバスチャンから車をしばらく走らせると、緑で覆われた大地は、赤土とワイン畑の景色に変わっていく。ポルトガルでのファームステイが良かったこともあり、ワイナリーに泊まれないかと探した結果行きついた場所が、Bodegas Puelles。オーナーの自宅と一体化したワイナリー・ホテルになっている。スペインの日差しの強い夏にはありがたいプールと、ワイン畑を見下ろせる部屋と周りの静けさがとても良い。

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ワイナリーの外観と部屋から見下ろすブドウ畑。木が少し邪魔。

夕方からオーナーによるワイナリー・ツアーがあり、他の宿泊客と参加した。スペイン訛りの強い英語でパワフルに話し続けるオーナーはとても気のいいオジサン。発酵から熟成、ボトリングまでのプロセスを見せてもらい、ホテルのすぐ裏にあるワイン畑にも連れて行ってくれた。このワイン畑はホテルの部屋の窓からも見下ろすことができる。最後はテイスティング・ルームへ。

この一連の流れは、他のワイナリー・ツアーでも体験できることだ。このワイナリーが何より良かったのは抜群のアットホームさである。大きなワイナリーであれば雇われた人が大きなグループに対して説明することが多いが、ここでは最初から最後までオーナーが付きっ切りで熱心に話してくれた。いくつかワイナリーを訪問すると、プロセスの通り一辺倒の説明には新味がなくなってくる。このツアーは、オーナーの個性やパッションが伝わってきたし、人数も少なく、時間のプレッシャーも感じなかったので、好きなことを自由に質問できた。

更に、テイスティングにはオーナー家族(おばあちゃんと奥さんと息子)も参加し、会話を楽しみながら皆で一緒にワインを楽しんだ。とは言っても、オーナーしか英語が話せないので、スペイン語と英語が賑やかに交わされる。試飲も大盤振る舞いで、私たちと他の宿泊客の計4人のために、主なラインナップ6本ほど開け、最後まで飲ませてもらった。なお、オーナーは日本にも何回か仕事で行ったことがあるとのことで、日本トークでも盛り上がった。勝沼のワイナリーを絶賛していたのは印象的だった。

このワイナリーはどうやら少し有名らしいことを、一緒にツアーに参加したイギリス人老夫婦から学んだ。私たちは、泊まれるリオハのワイナリーをグーグルで探した結果行きついたのだが、彼らはテレグラフ紙(イギリスで一番発行部数の多い新聞)で1年前に取り上げられた記事を読んで、すぐに申し込んだのだという。

テレグラフ紙は10中8の評価をつけ、この中でも家族の一員として迎えられることをハイライトとして書いている。場所、スタイル、サービス・設備、部屋、食事等の項目でポイントをつけているので、気になる人は是非読んでもらいたい。オーナー曰く、あくまで仕事の主はワイン造りなので、ホテルも大手予約サイトを使って手を広げることはしていないという。実際、Booking.comやHotels.com等大きな予約サイトでは見つからず、ワイナリーのサイトから直接申し込むことが必要だ。

翌朝、気に入ったワインをまとめ買いし、車に積んだ。今もスイスの家で楽しめている。スペインのワインは、チリやアルゼンチンの新世界のワインや王道フランスワインと比べると、日本ではまだまだメジャーではないが、価格も手ごろで飲みやすいワインが多いので、もっと増えると良いと個人的には思う。

朝ご飯もささやかながら充実しており、小さなキッチンで出来立ての卵料理とパン・コン・トマテ(バゲットの上にトマトとニンニク、オリーブオイルを乗せたもの)はとてもおいしかった。

経済的合理性の名の下に画一化が色々なところで色々な形で進む世界だからこそ、そうでない要素の価値は大きい。ワインと家族と、オーナーの大事にするものを家族の一員のようにたっぷり体験できた1泊2日であった。

キッチンのダイヤモンド、白トリュフの祭典

トリュフには色々な種類がある。色々を大雑把に分けると、白と黒、ということらしい。白はその香り高さが際立っているとされている。

トリュフは言わずもがな世界三大珍味として知られるキノコの一種だが、黒トリュフはフランスが主生産地、人口栽培も可能であるのに対し、白トリュフはイタリア北部が生産地で、自然に育つものを犬(昔は豚)を使って収穫するという違いがある。結果として、白トリュフの方が収穫量の制約があり、希少性が高くなる。また、収穫後8日以内に消費しなくてはいけないというのだから、消費も収穫時期に限定され、レア度は一層高まる。収穫、消費の規制も厳格で、レストランで白トリュフを提供するにも認可が必要らしい。

そんな白トリュフの一大生産地が、イタリア・ピエモンテ州にある、アルバという町。ここで10月から11月にかけて7週間にわたって白トリュフ祭り(The International Alba White Truffle Fair)が開催される。今年で第89回目を迎え、10月5日から11月24日までの開催である。先週末トリノ経由でこのトリュフ祭りに参加してきた。

活気溢れるトリュフ祭り

入場料は3.5ユーロ。会場内には白黒トリュフの陳列の他、地元のワイン、チーズ生産者がブースを設け、試食販売を行っている。会場の奥には、有料のワイン試飲と簡単な食事ができるコーナーも設けられていた。入場したばかりの11時頃は人もまばらだったが、徐々に人で溢れ、押しのけて進まなくてはいけない場所もあるほど。

ワイン試飲券は、グラスとワイン2杯で9.5ユーロという価格で決して安くはない。アルバの近くには、バローロバルバレスコというイタリアワインの名産地があり、それを味わいたいと思い購入したのだが、会場内のワイナリーのブースでもかなり試飲させてもらえたので、マストではなかった。ワイナリー巡りをせずとも、ワイン農家から直接かなり丁寧に英語で説明してもらうことができ、気に入ったワインも購入できたので、とても満足。

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会場の様子とトリュフの陳列ケース

もう一つのハイライトは、"Foodies Moments"というミシュラン・レストランのシェフによるクッキングショー。週末のお昼と夜に毎回違うシェフが担当しているらしい。事前のチケット購入が必要で、入場料と合わせて36ユーロ。1週間前にはほとんどが売り切れていたので、早めの購入が重要。

開始前にはアペリティフとして、アルタランガというイタリアのスパークリングワイン(製法はシャンパンと同じ)と地元のオリーブオイルをつけたバンケットが振舞われた。シェフが料理の仕方をイタリア語で説明し、司会の人が通訳も兼ねて英語で説明してくれる。そこでできたのがこのアンティチョークとリンゴ。ここにトリュフのペッパーと塩があしらわれる。とてもシンプルな料理。

希望者は”I want truffle”のサインを上げて白トリュフを削ってもらうという仕組み。迷ったけれども、せっかくの機会と思い、札を上げた。もちろんタダというわけにはいかず、この量でなんと28ユーロ!市場価格ということらしい。

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白トリュフが削られる瞬間。右はFoodies Momentsのカレンダー。

香りは本当に抜群。ヨーロッパ版マツタケ。黒トリュフとは異なる群を抜いた香り高さで、目の前で削ってもらう瞬間から香りが溢れていた。

この後また会場内に戻って試飲試食を続けて、トリュフ祭りを終えた。なお、町自体でもこのトリュフ祭りに合わせてイベントを開催しており、中世のコスチュームを着たスタッフが飲食、ゲームのテントの下で待ち受けており、そちらも楽しめた。

白トリュフと美食とアルバの成功

白トリュフは一大産業になりつつあるらしい。まず、白トリュフは先述した理由から希少性が高く、美食家の需要があることから、高い値がつく。例えば、2017年には香港人が850gの白トリュフに75,000ユーロ(1千万円近く)を支払ったという。

最近は、白トリュフの売買のみならず、関連する地域イベントやトリュフ収穫ツアー、ハイキング、料理教室、テイスティング等が多く開かれるようになり、2018年だけで、12万人年間が白トリュフのために各地域を訪問し、その経済効果は6,300万ユーロに及んだという。この白トリュフ産業の中心がアルバである。世界各国からの観光客が来るようになり、中国、ブラジル、オーストラリア、ドイツ、ベルギー、オランダ、イギリス、日本から多く来るという。実際日本人の多さには驚かされた。

更にアルバは白トリュフだけでない。ヘーゼルナッツの特産地でもあり、ヘーゼルナッツのペーストを基にしたヌテラを製造する、Ferreroもアルバ発祥らしい。更に、ワインの産地も近くに隣接している。美食の町たらしめる要素に恵まれているのである。

白トリュフ祭りの立役者

Giacomo Morra-今では驚くほどの高値で取引される白トリュフも、この人が現れるまで見向きもされていなかったらしい。トリュフと言えば、フランスの黒トリュフであった。この地域に生まれたモラ氏は白トリュフがかつて領地の貴族に愛されていたことに目を付けた白トリュフを扱うショップを作り、地元で成功、1929年、最初の白トリュフ祭りを開催し、多くの人々を引き付けたのである。しかし、その後、第二次世界大戦で停滞してしまう。

それでも更に白トリュフを国際社会の舞台へ押し上げたのがモラ氏のすごいところ。旬の最も良い白トリュフを世界各国の著名人に送り、魅了したのである。トルーマン米大統領チャーチル英大統領、マリリン・モンロー等枚挙にいとまがない。白トリュフは世界中の美食家たちの憧れとなり、白トリュフのアルバのブランドが確立したのである。

地域の名産品を世界ブランドにどのようにしていくのか。世界的に有名なものは、日本だと神戸牛は思い浮かぶがなかなかその後にパッと出てくるものがない。日本のご飯は美味しいのに、何だかもったいない。アルバの白トリュフに見られるように、どこどこの●●を世界に売ることができれば、物を売るだけでなく、加工食品や観光と裾野を広げることもできる。日本のグルメももっと知りたいと思う旅であった。